いしやす

1.はじめに

 2012年12月7日(金)、二次発表の朝を迎えた。その日、私は、銀座の協会の合格者発表を見に行くべきか、まだ悩んでいた。もし、落ちていたら、果たしてどうすればいいのか、考えれば考えるほど怖かったからだ。妻には、「もし落ちていたら、診断士はきっぱり諦める」と前日に話していた。そういえば、昨年(2011年)の二次発表のときは、迷わず銀座に向かっていた。あのときは、なんて無邪気だったのだろう、自分が不合格になる事を疑わなかった。でも不合格であった。そして銀座の景色は、本当に「灰色」に見えた。
その日、悩んだ挙句、結局は銀座に発表を見に行くことにした。落ちているかもしれないという気持ちを抱きながら、恐れ恐れ銀座に向かう。それでも、すぐには協会には向かえなかった。松屋デパートの喫茶で一服して気を落ち着かせて、いざ、協会のビルへ。そして、掲示板を見る。一瞬の後、「え、ないのか」、と思った。しかし、もう一度よく確認すると自分の番号(01108)が目に飛び込んできた。「番号が確かにある、今年はちゃんとある」、と思わず叫びたくなった。その日の銀座は本当に輝いて見えた。そして、思わず大粒の涙がこぼれた。やっと苦節の3年が終わったのだ。その苦しくも思い出に満ちた日々を以下に記したい。少しでも受験生の皆さんの参考になれば幸いである。

2.受験のきっかけ

 2009年秋、私は、内閣府において「㈱企業再生支援機構」(地域の中堅・中小企業の再生を促進させるための官民出資の時限組織。以下「機構」)立ち上げの仕事をしていた。機構の設置法案は、6月に成立していたので、その後は政省令の準備や組織の立ち上げなどを同僚と作業していた。
そうした中、10月に設立された同機構の第一号案件になると見られていたのが、迷走を続け、破綻が近いと見られていた日本航空㈱(以下「JAL」)であった。政府内では、水面下で、JAL支援決定への根回しが始まっていた。
私は上司である内閣府の担当局長から、JALと政府・機構とのリエゾン役になれ、との命令をうけた。果たして、その頃の私は、法律的知識やマクロ経済の知識はそれなりにあったが、財務や企業経営の知識は十分とは言えなかった。JAL担当のリエゾンになって、JALの経営陣や企業再生のプロたちと議論するには、少なからずの財務や企業経営の知識が必要ではないのか。それが診断士の勉強をはじめたきっかけだった。
表向きの理由は前述の通りだが、もう少し本質的なきっかけは、やはり15年近く霞ヶ関で国家公務員として働いてきた中、本当に培ってきたものがどれだけあるのかという事への疑問からだった。万が一、何かのきっかけで役所をやめることになったとき、自分の能力が本当に通用する場所があるのだろうか。この機会に自分を今一度リノベーションしておくべきではないのか、その一念だった。
2009年11月、我が家に待望の赤ちゃんが生まれた。生まれてきてくれた、最愛の娘のためにも、今の自分を少しでも向上・再生させたかった。今よりも自信とやりがいを持って、そして残りの人生をより楽しく生きていくためにも。

3.受験歴(概要)

 ○1年目(2010年度) 一次4科目(経済・経営・運営・中小)のみ合格
○2年目(2011年度) 一次残り3科目(財務・情報・法務)合格(念のため、経済も再受験)、二次不合格(評価ABBA-B)
○3年目(2012年度) 二次合格、口述合格

4.受験歴(詳細)

(1)1年目(TACのみ)
最初の年は、2009年10月からTAC渋谷校のストレートクラスに通った。馴染のある経済学や中小企業政策もあるし、一次はストレートで何とかなるだろう、というのが最初の実感だった。「二次は8月からでは合格は難しいですよ」という予備校講師の言葉にも従順であった。翌年2月からはTAC新宿校の「二次上級クラス」にも通うことにした。これで一次・二次をストレートで行けるのではないか。戦略は悪くなかったようにも思う。2010年に入って、GWに受けた二次の模試ではA判定(上位7%)、7月の一次模試はB判定(上位7%)であった。この段階までは、それなりには順調に進んでいるように見えた。
しかし、8月に受けた一次本試験では、「経営情報システム」で36点しか取れないという失態を犯してしまう。7科目合計では440点前後だったので、仮に「経営情報システム」での足切りがなかったら一次合格だったわけだが、苦手科目での詰めの甘さが露呈した結果でもあった。油断がなかったといえば、嘘になる。
結局、その年は二次には進めず、一次も結果的に3科目も残ってしまい、後味の悪い結果に終わってしまう。子育ても忙しい一年だったから、妻には本当に申し訳なく感じた。

(2)2年目前半(TACのみ)
妻と相談した上で、あと1年だけという約束で、TAC(八重洲校)の「一次・二次上級クラス」に通うことを決めた。今度は失敗は許されない。
一次の残り科目は、比較的順調に仕上がっていった。二次も並行してTACで勉強した。2011年に入って、GWに受けたTACの二次模試では、上位3%に入った(A判定)。7月の一次模試では4科目(経済、経営情報、法務、財務)の平均点で全国1位(A判定)になった。8月の一次本試験に無事合格した後、二次の勉強に集中した。9月のTAC二次模試も上位5% に入った(A判定)。予備校の先生も「順調にきているので、当日にぶれる事がなければ行けるだろう」と言ってくれた。しかし、一方で、模試で良い点をとれていても、本質的に与件を十分に理解できていないのではないか、過去問のやり込みが足りないのではないか、といった不安がよぎり始めた。その頃(2011年7月)、ネクストのHPに出会い、再募集をしていること が分かり、これは、と思って、即座に応募した。

(3)2年目後半(TAC+ネクスト)
ネクストでは、「文章が長く読みにくい」「一貫性が弱い」等とにかく多くの突っ込みを受ける。またOBからは、「TACの順位は、あてにしない方が良い」と再三指摘される。この頃から自信過剰と自信喪失の間を彷徨うようになる。
とにかく量だけはこなそう、と「月ねく」をOBにお願いして開催し、残りの8週間、月、水、土の3日間、ネクストで過去問の演習に励んだ。しかし、今から思えば、平成17年以降の問題を2~3回程度こなすのが精いっぱいで、それ以前の事例はついぞ解くことはできなかった。余裕がないことを言い訳に、復習も不足しがちだった。4つの事例ごとの特徴をとことん追求することもできなかった。TACの演習に通いながら、ネクストにも毎週出席した為、消化不良を起こしていたのかもしれない。
それでも、やるだけやったのだから、何とかなるのでは、というのが正直な気持であった。今から思えばだが、その年はネクストOBに「合格圏だね」、と言ってもらったことは一度もなかった。ネクストの中心人物にもなりえていなかった。すなわち全てが「中途半端」になっていた。
二次試験当日は、思いの外さっぱりした気持ちで受験し、全体的に出来はそれほど悪くなかったように思えた。事例Ⅰは比較的に順調に進み6割は取れたと感じつつ、事例ⅡとⅢは苦戦したものの何とか書き切り、事例Ⅳは簡単なところでミスが出たが6~7割以上は取れたのではないかと感じていた。これなら何とか行けるのでは、というのがその時点での正直な感触だった。
しかしながら、甘くはなかった。自分が得点を取れていると感じたのも妄想の域だったようだ。後で分かった事だが、事例ⅡやⅢでは、トンチンカンな解答を連発していた。結果は、評価は「ABBA-B」の不合格であった。

(4)3年目(ネクストのみ)
二次試験が不合格になり、それでもそれなりのエネルギーを費やしていた自負はあったので、しばらくは悔しさで勉強が手につかなかった。もうやめてしまおうかとも思う日もあった。しかし、敗因は明らかであった。復習に十分時間を割かなかったこと、過去問を6年分はやるにはやったが、どんな問題にもぶれずに対処する術を十分には身に着けられていなかった。
二次に集中してもう1年だけ覚悟を決めてやってみるか、という気持ちになってきた。幸い妻も、渋々ながらも「ここで辞めて悔いが残るなら、もう1年やったら」と言ってくれ、本当にありがたかった。

○第1・2フェーズ(1~8月)
・月ねく(前半)での事例横串分析(1~5月)
1月から月ねくを新たに立ち上げ、事例Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ毎に、平成13年から23年までの問題を横串的に読み、各年の共通点や相違点をまとめていくことから始めた。これらを毎週月ねくで議論し、事例毎の世界観や潮流をまず掴むことにエネルギーを費やした。この作業を通じて、基本的に毎年事例で聞いていることの本質は同じであること、またいくつかのテーマのバリエーションがあり、そのバリエーションの中から取捨選択がされて出題されていることが分かった。表面的な見た目は毎年変わるが、基本軸をつかんでいれば、過去問の応用や焼き直しにすぎないのではないかということが見えてきた。
なお、この時期には、「読む力」や「考える力」を改めてとことん養いたかったので、水ねくを除けば、桝目を埋める答案作成は一切しなかった。
・各年度の合格答案の分析(3~7月)
それがおよそ終わると、今度は合格者の答案の共通点や許される幅をそれぞれの年度で分析する事を始めた。合格者がほぼ同様の内容の解答を書いている設問もあれば、解答の内容がばらけている設問もある。合格するには、前者(同様の内容の解答)を外さないことがマストになる。また、後者(ばらけている解答)でも、一定の「的(まと)」の範囲で解答を書いているかが重要になってくる。一定の「的(まと)」の範囲で解答を収めるためには、事例全体の方向感を与件文や設問文からしっかり拾い出すことが不可欠であろう。
合格答案の写経も時々時間を見ては行った。各年度1事例に20人程度の合格答案をネクストや受験校のウェブ等から入手して、ワープロに打ち込むとともに、設問毎にグルーピングし、より良い解答、あまり良くない解答の選別をまとめていった。まとめた解答は、常時持ち歩き、電車での移動時間などに何度も読み込んで、合格答案の勘所を磨くよう努めた。
・水ねく(前半:1~7月)
水ねくは、アウトプットというよりは、8月以降の土ねくでの80分解きに備えたインプットと捉え、取り組んだ。「読む力」や「考える力」を仲間やOBからの突込みを通じて高めていく場と位置付けた。OBからは合格レベルの答案を作ってくるように言われていたが、私自身はまだこの時期に完璧な答案を書いてくる必要性が理解できなかったので、あまり答案の質にはこだわらず、より多面的に考えることに重点を置いて取り組んだ。
一方、2~5月にかけては当時職場の主要業務が大詰めを迎えていたこともあり、水ねくへの出席率は必ずしも高くなかった。なかなか、実力が向上しているのかどうか実感できず、苦しい時期でもあった。
・OBとの個別相談(3月)
3月にOBとの個別相談でいくつかのアドバイスを受けたが、その中でもとても有用であったのが、口述試験対策を意識して事例を考えることである。受験予備校などが公表又は販売している各年度の口述試験対策の想定問答や実際に当日行われた質問集などを多数入手し、事例を見ながらではあるが、如何に口頭で即座に解答できるかを練習した。事例の設問は最大でも5問程度だが、口述試験ではそれ以外の様々な要素から質問がありえた。事例をより複眼的に見るには、大変良いトレーニングとなった。

○第3最終フェーズ(8~10月)
・土ねく(8~10月)
8月に土ねくで本番さながらに80分で解答を作成する演習がスタートし(以下「80分解き」)、土ねくに参加を開始した。平成18年~23年までの6年分のI~Ⅲまでの18事例を毎週2事例ずつ解いていった。この80分解きを一回も休まず18事例全て解き切ったことが今思えば大きなアドバンテージにつながったと思っている。土ねくでは、OBが水ねく以上に丹念に解答をチェックしてくれた。あるOBは点数まで付けてくださるので、モチベーションが大いに高まった。
もちろん点数が悪いとショックではあるが、出来の悪い解答は、何度も復習して書き直すよう努めた。書き直した後、MLでUPすれば、誰かが突っ込みを送ってくれる。この繰り返しの作業をエクセルに打ち込んで、直前期は何度も見直した。
80分で如何に「読む」→「考える」の作業を効率的に行い、最後の「書く」にその内容を結実させられるか。水ねくの議論だけでは、このプロセス構築はできない。とりわけ「書く力」(わかりやすい文章を因果で簡潔につなぐ力)をこの時期にいかに高めるか、が合否に直結すると思う。
・水ねく(後半:8~10月)
この時期の水ねくは、まさに「最上級のレベルの解答」を書くことに力点をおいた。土ねくで80分でやった事例の復習の機会としても使えると思う。また、受験生たちがどのような解答を書いているのかを常に客観的に分析し、自分の解答に生かそうと努めた。
・月ねく(後半:8~10月)
この時期の月ねくでは、土ねくや水ねくで作成した答案の改善に取り組んだ。より高い得点を取るためにも、読み手にとって、一層分かりやすい解答の構成を意識しつつ、書く練習を繰り返し行った。その後は、月ねくで指導いただいていたOBに最後の最後まで、直メールで答案を送り、指摘を頂戴し、これを何度も見直すことで、自分の悪い癖を少しでも矯正するよう努めた。
・スーパーSM(9月)
スーパーSMではOBに3年間分の答案を見ていただき、的確な指摘をいくつもいただいた。また「油断しなければ、合格圏です」とのお言葉もいただき、「何ともしても合格しなければいけない」という気持ちになった。
・スペシャル企画(6事例(Ⅰ~Ⅲ)80分解き、事例Ⅳ4事例解き、知識補充、初見事例40分解き等)(10月)
10月に入ると、もう時間も無いので、受験生仲間とやれる限りのことはやろうと様々なスペシャルを実施した。特に予備校の模試等を使った一日「6事例解き」は本当に肉体的、精神的に疲れたが、これを最後までやり切れたことは良い自信になった。財務についても最後の1か月は土ねくで初見事例を4つ連続して解くこと等を何度か行い、対応力を高めていった。
また、各事例毎の「知識のまとめ」を土ねくなどで確認した。もちろん「コーズリレイティッド」の意味については勉強しているはずもなかったが、事例Ⅱの潮流が「地域、顧客、従業員との関係性強化」にあることを理解していれば、解けない問題ではないと感じた。やはり過去問の傾向分析を十分にやった方が解答のぶれは少なくできると思う。
更に、土ねく等を活用して、初見問題を40分で読み考え、その後解答骨子だけまとめた上で議論する形式も何本か繰り返した(以下「40分解き」)。
そして最後の日曜には、早朝からベローチェに集まって40分解きを5事例程解き、後は本番のみという気持ちになることができた。
なお、この年唯一受けたTAC二次模試の評価は上位22%(B評価)であった。一年前の模試より順位が大分下がってはいたが、過去問をやりつくしてきた自負があったので、それほど気にはしなかった。

○二次試験当日の状況
・試験会場:五反田のTOCは、会場も広く、しかも最後の列だったので、広々と場所を使えて、環境としては申し分なかった。
・事例Ⅰ:自分にとっては結構難しく手ごたえを感じられなかったが、事例Ⅰは皆そこそこしかできないはず、と考え、多面的にかいて4~5割取れればOKと気持ちを落ち着かせた。
・事例Ⅱ:過去問(温泉事例やスポーツ用品店事例)と切り口が似ていたので、素直に読めた。より得点が高まるよう、常に期待効果を意識し、わかりやすいフレームの解答を心掛けた。
・事例Ⅲ:与件が長く、情報を整理するのに時間がかかったが、基本的には過去問の延長線でかけば、一定の点数は来るだろうと気持ちを落ち着かせた。要所の設問では、できるだけ多面的に解答するように注意した。
・事例Ⅳ:与件文に加え、設問文も長く、試験途中は、なかなか手ごたえが感じられなかった。「これでは4割行かないのでは?」と一瞬「足切り不合格」が頭をよぎる。しかし、第1問は、結局はCVPの過去問の焼き直しと考え、落ち着きを取り戻し、何とか解答を埋めることができた。
・試験が終わった後は、どっと疲れが出た。正直、事例Ⅳで落ちたかもしれないと思ったり、事例Ⅰでかなり外したのでは、と落ち込んだりした。それでもOBからは「出来がイマイチと感じるぐらいの方が、実際は受かっている。やり切った気持ちがあるなら、大丈夫」とのお言葉をもらい、後は神様、仏様に祈ることにした。

5.心の旅 ~「診断士合格」旅日記~

 ここで少し脱線して、診断士の3年の勉強期間中、どれだけ多くの街で勉強をしてきたか、ご紹介したい。国内外への出張が時々あったため、海外を含め、本当に多くの地で勉強させていただいた。その地のホテルや喫茶店、時には駅のホームのベンチ、飛行機や電車の座席などで財務を中心に隙間時間を使ってコツコツと勉強したのは、今ではとても良い思い出である。
様々な都市の風景が、診断士試験勉強の苦しくも有意義であった日々と重なり合い、とても懐かしく、愛おしく思われる。受験生の皆さんも、出張時などの隙間時間を有効に活用していただければ幸いに思う。

(1)首都圏
○TAC関係
渋谷、新宿、池袋、水道橋、横浜、八重洲
(渋谷は、診断士の勉強を開始した思い出の地(昼に近くのそば屋でかつ丼を食べるのが楽しみだった)。それ以外でも面白そうな講師のもとに単発で通ったりしたので、結果多くの校舎にお世話になる事になった)
○LEC・MMC・AAS関係
高田馬場(LEC)・御茶ノ水(MMC)・王子(AAS)  (LECでは2年目に一次本試験直前講習で高田馬場に訪れた。MMCの模試では、明大のリバーティタワーにお世話になった。また、AASでは3年目に特に読む力を強化するため、単発講座を王子で2度受けた。)
○ネクスト関係
神田、久松(人形町)、飯田橋、秋葉原、神楽坂、新川(中央区)(ネクストでも多くの公民館に通い、お世話になった。その中でもやはり神田が忘れられない。月ねくでは、神田の「ベローチェ」や「サンマルク」にも大変お世話になった。また、土ネクで通った久松では、近くの中国人が経営する中華料理店にて「スタミナ定食」(本当に食べやすく美味しかった)をほぼ毎回食べて、本番直前の苦しい時期を乗り切った)
(2)地方都市
○福岡、長崎、広島、岡山、松江、米子、大阪、高松、京都、名古屋、津、宇都宮、小山、鬼怒川
(出張で多くの地方都市に行ったが、その地のホテルなどで二次事例の早朝勉強をやったり、喫茶店や駅のベンチ等で財務を解いたりした)
(3)旅行先
○那須、箱根、茅野(長野県)、清里(山梨県)、出雲(島根県)
(プライベートの旅先でも、二次事例を持ち込んでは隙間時間を見つけて読み込んだりしていた。妻にはよく怒られて、余り進まなかった。それでも、家族との団欒やその地での温泉やお酒が心を癒してくれた)
(4)海外
○ソウル、テジュン、テグ(以上韓国)、台北、ベルリン、シュトッツガルト(ドイツ)、ポズナン(ポーランド)
(診断士の勉強は、海外の地にも及んだ。とりわけ、動向調査のために出張で訪れた韓国やドイツの高速鉄道内では、風景に見とれながらも、電卓をたたき、財務を解いた)

6.二次での最重要ポイント

・過去問はできれば平成13年から直近まで全て読み込み、やりつくすべき。
・一事例ずつ解くだけでなく、複数年に渡って流れる「潮流」を自分で体感し、出題者のメッセージを理解しようと努める。
・突っ込みをもらったら、必ずエクセル等でリスト化して復習し、定期的に、改善がなされているか振り返る。
・「書く力」は、最後の段階で何とか身に着くと思うが、「読む力」、「考える力」は、中長期スパンで計画的に身につける。その意味で、桝目を最初から埋めることにこだわるよりは、「読む」、「考える」に重点を置き、事例研究を欠かさない。
・会場の下見は、できるだけしておく。当日の気持ちの落ち着きが全然違う。
・ネクストで上位3割(=上位10人程度)に入ることを目標にする。常に合格者レベルの他の受験生を意識し、良いものは取り入れ、自分の解答を磨く。
・漫然とネクストで議論を繰り返すだけでは、必ずしも合格答案はかけないかもしれない。常に自分に合った良い勉強方法がないかを考え、改善を繰り返していくべき。また、企画をどんどん立ち上げていくことも良い。
・OBとの個別相談やスーパーSMは是非積極的に活用されたい。
・ネクストでの立ち位置は「中途半端」はいけないと思う。どうせやるならネクストの中心人物の1人になって頂きたい。そうしていれば、最終コーナーで合格レベルの受験生との相乗効果がうまく働き、成果が格段に目に見えてくると思う。

7.受験生へのメッセージ

・診断士二次試験は、頭の良さや創造的アイデアを競う試験ではないと思う。中小企業の社長さんにわかりやすい言葉で如何に説得力を持って診断と助言を伝えられるかを試す、ある意味「独特な」暗黙知的試験(ゆえに最初は勉強しずらい)。
・それでも、一年間ネクストで復習を怠らず、受験生の中にどっぷりとまみれて、試行錯誤を繰り返せば、合格の確率は格段に上げっていくと思う。是非合格をつかんでいただきたい。

8.終わりに

・これまで、1年半親身に指導してくださった歴代OBの方々、また一緒に勉強し苦楽を共にしてきた受験生の方々に心より感謝したい。また3年間勉強を支えてくれた妻と娘、そして会社の同僚の方々にお礼をいいたい。そして、これから1年間はネクストの受験生の皆様のために自分のできる限りの恩返しをしていきたい。
・余談だが、診断士の勉強を開始するきっかけとなり、支援初期に少なからず関与したJALは、その後、稲盛会長の下、事業構造の改革を進めた。3年以内の再生に目途が付き、2012年秋に株式再上場を果たし、機構は全ての支援を終えた。民主党政権時代の数少ない実績のうちの一つと今では言われているが、航空業界の経営環境は依然厳しく、今後再び正念場を迎えるかもしれない。
・今後は、これまで霞ヶ関で培ってきた経験と診断士の勉強で得た知見や人脈を活かし、少しでも地域や中堅中小企業の活性化に貢献できるように、引き続き努力を重ね、様々な形でフィールドを広げていきたい。

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